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Sophia Cradle IncorporatedPresident Blog : Venture Business

2005 年 08 月 01 日 : Reason

"何故ベンチャーを創めたのか?"

この問い掛けへの答えはベンチャーの未来の在り様に大きな影響を与える。個人の生活がこの上なく充実したものになるようにしたいとの願いを"ソフィア・クレイドル"というベンチャーに託して起業した。

創業以前、大企業でサラリーマンをしていた。自分を含め組織に所属する人々は必ずしも充実した人生を過ごしているわけではなかった。学んだ最大の教訓は、企業の規模や知名度は必ずしもその企業に所属する個々のスタッフの幸福に直結しないという事実だった。

"どうすれば充実した人生を過ごせるのか?"の答えはベンチャー創業の理由でもあり、現在も捜し求めて模索している。

物事の考え方には大きく分けて2種類ある。それはトップダウンに概念を展開してゆく演繹的アプローチ。もうひとつは個々の事実をボトムアップに積み上げて全体的な概念を形作ってゆく帰納的アプローチ。どちらかといえば、前者が大企業的であり、後者がベンチャー的である。

トップダウンで下位概念に展開するプロセスでは、創造性というものが入り込む余地は限定される傾向にある。決めた枠の範囲内では確実にスピーディに仕事がなされるが、意外性といったものが無いのは大きな欠点だろう。

21世紀の時代を迎え、"ワクワク&ドキドキ"というキーワードに代表されるように「感動ビジネス」がいま脚光を浴びている。個人的な見解として「感動」とは思いもしない冒険や発見の中に見出せるようなものと思っている。

四季折々のたとえば桜や紅葉などはささやかだけれども心の中に残る美しいものである。そういった情景を心の中に少しずつ積み重ねるようなプロセスが大切ではないか。偶然の産物なのかもしれない。感動的な新しい真実や真理とは往々にしてそんな風にして見出されると思う。それはあたかも万華鏡に映し出された美しい映像のようでもある。

ボトムアップの帰納的アプローチでは、時間を要するかもしれないけれど感動的な場面に遭遇する機会も多い。それは時間が掛かれば掛かるほど喜びもひとしおという感覚に近い。

  

2005 年 07 月 29 日 : Valuation

企業の価値はどのようにして定量的に算定すればよいのだろうか?

厳密な数値として算出するのは到底不可能である。しかしその考え方の本質を捉えることで企業のレゾンデートル RAISON D'ETRE と言えるようなものが発見できそうだ。

現在時刻 t におけるある企業の評価値を Valuation(t) という関数で表現するとする。その時、t の値が取り得る範囲は[その企業が設立された時]から[その企業が消滅する時]までである。

従って、企業価値Vというのは 関数 Valuation(t) で t の取り得る範囲で積分したものがトータルとしてのその企業価値といえるかもしれない。

   [その企業が消滅した時]
V=∫Valuation(t)dt
   [その企業が設立された時]

Vの値が大きければ大きいほど、その企業は社会的に存在価値がある。だから企業の経営者、特にベンチャー起業家にとって最大のミッションは、このVの値を極大化する仕組みそのものの創造だと考える。

企業の生命というものは人間のように定まった寿命があるわけではない。実際のところ、何百年以上もの時を経て現在もなお存続している企業の例は少ないがあることはある。それ故に、t が取り得る範囲を自分の寿命を遥かに超えたものとして設定することも可能なのだ。

こんなことを考えていると、企業経営で真に大切なのは人間の生命のスパンをも超越し、できる限り長く付加価値をアウトプットし続けるDNAのような仕組みを創造することだということがはっきりと見えてくる。

ある時刻 T における企業価値 Valuation(T) の値は必ず"有限(finite)"である。法人であれば、時間軸を"無限(infinite)"に延長して考えることができる。"無限""有限"を超越する存在である。たとえある時刻における企業価値の値が小さくとも、それが"無限"に続くようなものであるのならば、時間軸で積分した、その企業のライフサイクル全体の企業価値は計り知れないほど偉大なものとなる。

"ソフィア・クレイドル"はそんな視点から経営がなされるように努力している。

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2005 年 07 月 28 日 : Extention

ビジネスを広げる方法には2種類ある。一方は"X","Y","Z"…といった異なるマーケットセグメンテーションに"A"という事業に絞って展開するやり方。もう一方は"X"という単一のマーケットセグメンテーションに"A","B","C"…といった異なる事業を展開するやり方である。勿論、その両方を同時にやるというオプションも有り得るが、それで成功するのは稀なケースだろう。(ビジネスがまだ小規模なうちは、ここでいう事業は商品と置き換えて考えてもよい。)

そのどちらを選択するかが、事業を拡大する時に問われる経営者のセンスではないだろうか。どちらか一方のアプローチが優れているというわけではない。自分が手掛ける事業の社会的な、或いは個人的な意味や意義から最も適した道を選択するのが良いのだろう。

私の場合、こんな風にして事業を成長させてゆく夢を抱いている。ソフィア・クレイドルという事業で最も大切にしている信念は、"シンプル・イズ・クール&クール・イズ・シンプル"という発想である。21世紀の時代では、その仕事をするだけの価値の誇らしさから自然に生じるクールさ、即ちカッコ良さというものは避けて通れない気がする。

個人的には、クールさというものはシンプルさに直結しているかのように感じている。水墨画においては"白"と"黒"という、たった2色の濃淡で全ての色を表現していたりする。実際にそれを眺めて『なるほど』と感心したりもする。実際のところ、この広大な宇宙に存在する多種多様な物質も全ては原子という共通の単位で構成されるというシンプルさである。それでいて、人間の浅はかな智慧では計り知れないほどの複雑さで満ち溢れている。生物の遺伝子も然りである。現象として複雑なものもその原因となる元を正せば、シンプルなある事実に辿り着くのが実態ではないだろうか。

そんな発想から、ソフィア・クレイドルでは何事もシンプル&クールに"Simple & Cool"、そして創造的に考えること"Think Creative"を第一にして運営しているつもりである。実際、やっている事業も、携帯電話向けソフトウェアを記述するためのプログラミング言語とプログラム圧縮という、たった2種類のソフトウェアテクノロジーでしかないというシンプルさである。

だから、この単純且つ明快なビジネスを大きく発展、繁栄させためのアプローチの基本的な考え方は「"A"という事業を"X","Y","Z"・・・という異なるマーケットセグメントに横展開する」という方法論こそ自分には最適であると考えている。

こんな背景もあり、ソフィア・クレイドルで行っている事業は"全世界で共通して使えるのか?"それから"携帯電話に止まらず、それは自動車やテレビ、エレベーターなど、全く異なるジャンルでも応用できるのか?"が究極の意思決定の判断材料となっている。製品・サービスの開発においては常に広く海外マーケットでも通用する汎用性を意識し、それをインプリメントする人材をも広く世界から募る。そんな姿勢こそが成功の秘訣ではないかと思えさえする。

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2005 年 04 月 27 日 : Core concept -7-

ベンチャー起業というものは創業者がそれまでに歩んできた足跡が映し出された万華鏡みたいなものなのだ。過去の出来事をバネにして飛躍し成功を果たしたベンチャーが多いように思える。だから何故ベンチャーを起業したのか?その経緯や背景を抑えて、それを経営の指針として大切に取り扱うべきだろう。

学生時代は必須科目の単位など多少の制約はあったにせよ、その当時何も束縛のない自由な日々を満喫していた。大抵のことなら自分だけの価値判断基準に従って自ら決めて行動するという風に。しかし大企業の一介のサラリーマンとして社会の門出に立った途端、そんな生活も一変した…。

お金を貰って働いているからそれは当然だろう?というのがほとんどの考え方なのかもしれない。大組織の中では本来の自分の意志に背くようなミッションも多かった。納得のいかない歯痒い日々がベンチャーを起業するまで延々と続いた。大企業というのは安定していて傍目から見れば確かに輝かしい。

実のところ、それ故に企業そのものの仕組みがタイタニックのように小回りの利かないものになっている。与えられた仕事を着々とこなすタイプの人には向いているのかもしれない。冒険好きの私にとってその環境は耐え難いものであった。生憎私は指示や命令通りに動けない性分だった。オフィスとかブランドは申し分なくカッコ良かった。個人的な見解だが、居心地は見た目ほどいいものじゃなかった。

誰しも取り柄が人それぞれにあるものだ。私の場合、子供の頃から数学の成績だけは抜群に良かった。だから将来はこの才能を伸ばせる職に就きたいと中学生の時分から自分の未来に期待を抱いた。その頃はコンピューターというものは今みたいにどこにでもある物ではなく、漠然とイメージするしかなかった。ひょっとしてプログラマーってカッコいい職じゃないかなと思いを馳せていたものだった。それは彼の有名なビル・ゲイツとポール・アレンが世界で初めてアルテアというマイクロコンピューター用にBASICというプログラミング言語環境を完成させた頃の話だ。

できるだけ自分の才能を開花させたいという一心から、大学では数学とコンピューターの研究に受験勉強よりも熱心に励んでいた。大学での基礎理論中心の勉強だけでは実践的でない。だから大学生の頃からプログラミングのアルバイトにも精を出した。周囲にいた友人の大半は家庭教師や塾、予備校の講師をしていた。当時としては少数派の学生プログラマーとして楽しくアルバイトに勤しんでいた。今を時めくマイクロソフトの存在がようやく日本でも微かに意識されるようになっていた。

その当時、パソコン(マイコンと呼んでいた)のメモリは64キロバイトしかなく、スピードもかなり遅かった。でも社会ではちゃんと役立っていた。コンピューターとしての性能なら、いまの携帯電話の方が格段と勝っている。だからこそ何十年後かに携帯電話がどのように進化しているのか?その未来にワクワク&ドキドキさせられる。

その時のワクワク感が一本の糸のように繋がって、幸いにもそれが切れずにソフィア・クレイドルというベンチャー起業に辿り着いたと謂えなくもない。その当時は「ベンチャー」とっても文字通り「冒険」という意味でしか通用しなかった。そんな時にとあるベンチャー企業でプログラマーをしていたのは自慢と言えるだろう。そしてプログラミングの面白さに文字通り嵌った。

社会に出て何年か過ごすうちに、大企業とは如何にして効率良くお金を稼ぐか、それが第一。それを実践する場であるかのような感慨が日増しに大きくなった。勿論、崇高な企業理念はあったが、皆が皆そのように行動しているとは思えなかった。自分のやりたい仕事に恵まれている人はほんの一握り。ほとんどの人はひたすら与えられた仕事のノルマをクリアするのに四苦八苦していた。

大抵の大企業は株式を公開している。その企業の形式的な所有者である株主の、経営に対するプレッシャーが外資系の企業は強い。最近では国内の上場企業にもそんな傾向があるように思える。企業は株主の意向をよく汲みとって運営されねばならない。株主が期待するのは端的にいえば配当の源泉となる利益そのものだ。しかも配当が高ければ自ずと株価も上昇し申し分ない。だから短期的な利益を追い求め、結果的に墓穴を掘る大企業経営者が後を絶たない。

社会人となってから初めて理解した重要な事は、大企業は世界を変革するようなブレークスルーを生み出す場では無いということだ。パソコンはマイクロソフト、インテル、アップル…、インターネットはシスコシステムズ、ヤフー、アマゾン…、携帯電話はクアルコム等など、挙げれば切りがない。身の回りにあるほとんどのものについて、その発祥の地はベンチャーだったりする。世の中が変わる革新的な技術やサービスはそのほとんどがベンチャーから産まれているのは確かな事実だ。だからそんな職に就きたければベンチャーを選択すべきだったのだ。しかし日本国内では将来有望そうなベンチャーを私は発見できなかった。プログラミングの分野でブレークスルーを起こしたかった私としては砂を噛むような思いの日々が続いた。

実際のベンチャー創業は39歳になってしまったが、20代後半の頃から既に私は心の片隅ではベンチャー起業を志していた。ベンチャーを創業し育てるにはいろんな知識や経験が必要なのでは?とその時はそう思った。多種多様なことを意識的に学び、ベンチャースピリッツを大切にし何事にも真剣に取り組むように努めた。そうやって勉強や訓練しながらベンチャー起業に備え、そして起業のチャンスをしっかりと掴もうとした。今から振り返れば、早すぎて悪いことは何も無いように思うが、過去の事実は変更できない。結局のところそれは良かったんだと、ただ前向きに解釈する方が良いだろう。過去はきっと変更できる。

(つづく)

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2005 年 04 月 25 日 : 止足の計

二千数百年以上も昔の中国。秦の始皇帝が天下を統一するまでは、群雄割拠の戦乱の世が何百年も続いたという。そんな不安定な時代を賢明に生きのびるための智慧として、実にさまざまな思想や哲学といったものが生まれた。その中でも群を抜いて優れたものは今も古典として語り継がれている。

中国は土地も広大であれば、人口も日本とは桁違い膨大な数に上る。それだけにそんなところで天下統一を目指して戦いに次ぐ戦いをしたにしても切りがない。また常に戦争に勝つのも至難の技だろう。そのような状況の中で生まれた叡智が、今も世界中で多くの人々に繰り返し読まれ続けている古典の一つ「孫子」の兵法である。

「孫子」の謀攻篇・第三の文章に次の一節がある。

是の故に百戦百勝は
善の善なる者に非ざるなり。
戦わずして人の兵を屈するは
善の善なる者なり。(「孫子」謀攻篇・第三より)

これは数多くの「孫子」の戒めの言葉の中でも名言中の名言に類するものと謂われている。真の智将というものは、何事にも戦わずして勝つということを意味する。誰にも気付かれもしないで勝利することが最上であるとしている。

勝つにせよ負けるにせよ、戦争をすれば必ず互いに深いダメージが伴う。その時たまたま勝ったに過ぎないのにそれでいいと思ってしまう。しかし戦国時代の古代中国のごとく、その相手が無数にいるとすればそんな戦いに常勝するなんて天文学的に低い確率でしかあり得ない。確実に言えるのは無闇に戦争を続けているといつか敗れるということである。

老子」の第四十四章と第四十六章に示唆に富んだ文章がある。

足るを知れば辱しめられず、
止まるを知れば殆うからず。
以って長久なるべし。(「老子」第四十四章より)

禍は足るを知らざるより大なるは莫く、
咎は得るを欲するより大なるは莫し。
故に足るを知るの足るは常に足るなり。(「老子」第四十六章より)

事足れりとすることが大切で自らをわきまえて真の意味でバランスをとる事が重要という「止足の計」(「知足の計」)の訓えだ。「孫子」の「戦わずして勝つ」の原点はこんなところにあるのかもしれない。ベンチャーの世界は倒れ、躓くことが日常茶飯事のようである。そんな時、戦国乱世、嘗て中国にて培われてきたいわば人生の智慧としての名言の数々は、過酷な運命に曝される創業期のベンチャーが弛まなく成長するための貴重な糧となりそうだ。

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2005 年 04 月 15 日 : Core concept -2-

小学生の頃、社会科の授業で習った「再生産」というキーワードがいまも頭の片隅にある。存続する限り、企業では製品やサービスが延々と再生産され続ける。毎年毎年それが同規模であれば「単純再生産」、増加傾向にあれば「拡大再生産」、減少傾向にあれば「縮小再生産」と呼んでいたことを記憶している。

会社というものは適正な利潤をあげて、それを新しい投資に回し、人員や機械などの設備を強化し、拡大再生産を続けなければならない。先生の話を聴いてそんな風に小学生ながら考えていたのが、今更ながら懐かしい思い出だ。

利益の約40%は税金として納めることになる。拡大再生産によって新たな雇用が創出されるし、それに必要なモノも売れる。だから、利益をあげるということは社会貢献に繋がっているともいえよう。問題は如何にして利益をあげるかだろう。これはベンチャー起業の永遠の課題でもある。

さて、商売をしていると「利は元にあり」という格言のような言葉をよく耳にする。商売する上で利益は企業存続の糧であり、その利益は良き仕入れから始まるという意味らしい。良い品を仕入れて妥当な値段で販売し、適正利潤を得ると考え方である。松下電器産業株式会社創業者の松下幸之助氏によれば、仕入先から良い品を安く買い叩くのではなく、お客さまと同じくらい大切に仕入先と接してゆくことこそが何よりも肝要であるとのこと。確かに利は元にあるようだ。

未来永劫、企業が成長し発展してゆく進捗の度合いは毎年内部留保される利益の多寡によって左右される。従って、どうすれば利益は最大化されるのかという問い掛けは企業を経営していると避けて通ることはできない。ベンチャーの創業期であれば会社自体の資本や資産も少ないわけだから、尚更どうやって利益を上げ、それを内部留保し、会社を健全に成長させてゆくべきかというのは最重要課題に思える。

会社が育つことで仕事の範囲や規模も大きくなり安定感も増す。遣り甲斐に溢れるスケール感ある仕事にも恵まれる。そして自分たちの能力の限界に挑むことも可能だ。ゼロから無限大へと伸びる成長曲線の軌跡を描きながら、未知の世界を探検する楽しみ。実際のところ、それがどういったものなのかは当事者にしか理解しえないかもしれない。人によってはワクワク&ドキドキする体験ではないだろうか。

大抵の場合、ワクワク感、ドキドキ感というのは、初めて経験するものに対して抱く、掛け替えの無い人間だけの感情ではないだろうか。そして、その気持ちは主として自分がそれによって何か変化する時に自然に湧いてくる不思議なものに思える。子供の頃、未知の世界のいろんな出来事を経験し、それに触れる度にある種の感動や感銘を受けながら成長した。あの感覚に近い。

ベンチャーにはそういった魅惑に満ちた一面が隠されている。毎年毎年、見える景色や風景が四季折々ダイナミックに変化するのだ。その度にいろんな出会いや出来事に一喜一憂しながら、私を含むスタッフ全員、そして会社が成長してゆくのである。そんな会社の成長の源泉は利益にある。時間軸をも想定した上で、その利益をどうやってバランス良く最大化させるかというのが会社経営上の大切な課題に思える。

短期的に儲かれば良いというのではなく、長期に渡って継続して安定的に利益がでる仕組みが大切だ。そのためにも「利は元にあり」という昔から伝わる、シンプルな言葉をどのように解釈するかがヒントになりそうだ。

粗利益とは売値から仕入れ値を引いたもので、粗利益が会社の利益の元でもある。単純な話だが、仕入れが無ければ、粗利益率は100%ということになる。利益という観点からすれば、これこそまさに理想の状態だ。商売をする上では究極の姿だろう。極論、仕入れ値が0円であるなら、ゼロで無い限り売値を如何様に付けても粗利益率は100%である。勿論、粗利益に売れた数を掛けたものが全体の利益に繋がってゆくので、売れる数の方も重要だ。

以上のようなロジックを背景にして、ベンチャーを創める時に最重要視したのはこういうことだ。即ち、粗利益率が限りなく100%に近く、売れる数も多い。そういったビジネスモデルをどうやって構築するかということだった。その問いに対する一つの回答が携帯電話向けソフトウェアのライセンスビジネスであった。ライセンスするソフトウェアそのものを自社で研究開発し、製品化し、それをインターネットで世界中に配信する。そのようなビジネスモデルが完成した暁には、その製品が売れるという前提で粗利益率100%のビジネスが成立することになる。売れる数は世界の携帯電話の台数だけあるのだから、その利益の絶対的な数字も大きなものとなろう。

塵も積もれば山となる。たとえ一個あたりの粗利益が低くとも数が多ければ、掛けて足した数字は大きくなる。そんな算法が応用できる。

このビジネスモデルの最大のネックは商品であるソフトウェアが完成するまでは売り上げが確実にゼロであるということ。それから長い時間と多額の開発費用をかけて商品が完成したとしても売れる保障はどこにも全く無いということだ。虎穴にいらずんば虎子を得ず。それにすべて賭け、自分たちを信じるしかなかった。

しかし、やり方次第では限りなく高い確率で売れる商品の研究開発も可能であることが事業を進めている過程でだんだんと分かってきた。この場合、「利は元にあり」にいう「元」に相当するのは私たちそのものであり、自らコントロール可能なパラメーターだ。本来なら仕入れるべき商品を私たち自身が創ることになるのだから。松下幸之助氏が指摘したことを応用するならば、経営者の立場としては、自社の商品であるソフトウェアを開発する人たちを大切にしたり、職場環境をよりよくすることに心掛けた。そうすることで全てが前向きに加速して進んでゆくように感じられた。

(つづく)

  

2005 年 04 月 15 日 : Core concept -1-

いま自分の心の中にあるイメージによって未来はかたち創られる。どんな環境下でも果敢に挑むことを怠らなければその思いは実現するという。そのために核心ともいえるコンセプトを、それに集中できるように明確な文書にすることは大切だ。文字や絵にして表現するプロセスを通じて取り留めのない考えもしっかりとした、かたちあるものへと前進し収斂してゆく。

1回では全てを語り尽くせない。他の構想は後回しにして追々話すことにして、何回かに分けて「ソフィア・クレイドル」というベンチャーの事業運営のコンセプト的な辺りをまとめてみたい。ベンチャーを経営している上で遭遇する、あらゆる事象に対する意思決定の判断基準になっている拠り所みたなものである。

普通に考えると、テレビCMに出てくるような有名な大企業は完全無欠な理想郷のような存在に思える。しかし世の中のあらゆるものごとにはコインのように必ず表と裏の両面がある。

1990年前後くらいから日本の社会全体が高度経済成長期から停滞期或いは衰退期へと時代は移り変わっている。それとともに、多くの上場企業が崩壊し、吸収合併もしくは倒産を余儀なくされている。大企業の時代は終焉し、何か新しい変革の波が押し寄せている。ベンチャーを起業し新境地を開拓する、絶好のタイミングでもある。

優秀な人材に恵まれた大企業では、ある1人の卓越した社員の働きで大きな利益が会社にもたらされる例は日常茶飯事のようにある。しかし、1人当たりに換算すると母数が大きければ大きいほどその数字は小さくなってしまう。

利益を引き出してくれる社員が多ければその会社は確かに大いに発展するだろう。しかし、多くの社員は自分の給与分すら稼ぐのに四苦八苦している。有能な社員らが稼ぎ出した利益の大半はそういったところで穴埋めされ相殺される。それが多くの大企業の現実の姿だ。

寄らば大樹の陰。大企業には、輝かしい活躍をしている社員がいる一方、危機意識に欠ける社員も多い。将来への安心感、若しくはブランドのカッコ良さという理由で大企業に入社する人が大半を占める。世界的にもスケール感ある仕事をしたいがために、大企業に入社する人は寧ろ少数派だ。「モチベーション」というものを失った社員が多数在籍するのも事実だろう。

そういった洞察から私が悟ったのはこのことである。21世紀の時代は「一人当たり」の指標が企業の発展にとって重要になってくるだろう。年商や従業員数を誇るんじゃなくて、社員1人当たりの売り上げ、利益、それから平均給与などである。いくら会社全体の売り上げが大きくとも、個々の社員の生活が成り行かないのならば、それは大きな問題ではないだろうか。そこにベンチャー起業のチャンスを見出す努力をしていった。

会社の規模は小さくとも1人当たりの指標が大企業よりも大幅に上回っていれば誰しも未来のあるそちらの企業で働きたいと思う。時代はそんな方向にシフトしつつある。これまでの大企業というのはどちらかといえば、できるだけたくさんの社員を雇い、仕事をこなし、その企業の一部の幹部だけがいい思いをする。極、悪い言い方をすればネズミ講的なモデルのようにも見える。

スムーズに事業を立ち上げるにはどうしても設備面である一定以上の資本が必要であったり、ベンチャーに対する社会的なマイナス意識があったりして、敢えてベンチャー起業というような手を打つことが叶いにくかった。先見の明のある稀代の天才は当然のようにベンチャーを起業し、成功させている。しかし、その数は逆の意味で天文学的に低い確率でしかなかった。

ITバブル崩壊というようなものがあったにせよ、インターネットが発達し、コンピューターも手軽に買える時代になったいま、ベンチャー起業は確実にやりやすくなってきている。あと大切なのは起業に大変苦労する創業期をどうやって乗り切るかだと思う。

生き物と同じように、創業期の頃出来上がったかたちの相似形でベンチャーも未来へと成長してゆく。だから、最初にどういったコンセプトで事業を構想し、それを計画し、実際に行動へと移してゆくのかという仕掛けや仕組みが何よりも重要だ。多分、それが企業のDNAみたいなものなのだろう。

(つづく)

  
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