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Sophia Cradle IncorporatedPresident Blog : Sophia Cradle

2005 年 05 月 12 日 : First finale

2005年5月からソフィア・クレイドル製品の海外輸出を開始する。長らく海外のお客さまから待ち望まれたことがようやく実現できる。同時に海外の有力ITベンチャーとの共同プロジェクトもスタートする。

単純に携帯電話の普及台数から類推すれば、日本を「」とすれば海外のマーケットポテンシャルは「15」くらいである。日本における携帯電話のマーケットは飽和状態だが、海外の方はいまも勢い良く延び続けている。将来的に「15」というこの数字は「20」にも「30」にもなることだろう。

ソフィア・クレイドルのビジネスモデルは国内マーケットからの売上だけでも充分に利益が見込めるように組み立てられている。しかも粗利益率はほぼ100%だから海外マーケットでの売上はそのまま利益になる。自然に儲かる仕組みが実現できるわけである。

利益はスタッフと会社、そして社会の未来への発展に向けた源泉である。そのために、ソフィア・クレイドルを史上類を見ないような高収益企業にしたいと思っている。

それは海外でのビジネスにかかっていると謂っても過言ではない。そのために、Webとマーケティングに関してプロフェッショナルな人材を採用する活動を久々に展開している。

これまでは製品開発で手一杯だったが、これからは海外マーケットも含めたWebマーケティングを戦略的に強化するつもりだ。

これによって、「世界中のあらゆる携帯端末にクールなソフトウェアをネット配信する」というソフィア・クレイドルのビジョン実現に向けた、第一フェーズが完結する。

  

2005 年 05 月 11 日 : Core concept -12-

米国マイクロソフト社沿革を見ればいくつかの事実が発見できる。一つは1975年から1979年までマイクロソフトの本社がニューメキシコ州アルバカーキにあったこと。もう一つ、現在の本社はシリコンバレーではなく、ワシントン州シアトル郊外の、環境の良いレドモントにあるということ。

私を含め、土地勘の無い大抵の日本人だとピンとこないかもしれない。ニューメキシコ州アルバカーキという街は砂漠のど真ん中にあるらしい。創業の頃、ビル・ゲイツが在籍していたハーバード大学の所在地、マサチューセッツ州ケンブリッジからも、故郷であるワシントン州シアトルからも何千キロも離れている。何故そんなところに本社を構えざるを得なかったのか?そしていま何故ワシントン州レドモントにその本拠地があるのか?私はその点に興味を持ってマイクロソフトの沿革を眺めた。

マイクロソフトの原点である、BASICインタプリッタのプラットフォームはMITS社のアルテア8800であった。そのMITS社の本社がニューメキシコ州アルバカーキにあった。それが、創業以来4年間にわたってマイクロソフトの本社がそこにある所以らしい。常識で考えれば、誰しも好き好んでそんな場所に本社を置かないと思う。ビジネス上の都合からそうしていたわけだろう。そういうことから察すれば、1975年から1979年の4年間、いまを時めくマイクロソフトも今は亡きMITS社のソフトウェア開発子会社的な位置付けに過ぎなかった。決して華々しくデビューしたわけではなかった。

では何故マイクロソフト社はMITS社と運命を共にすることなく、IT業界の巨人として飛び立ってゆくことができたのであろうか?

その根本的な原因はソフトウェアライセンスビジネスという構想をいち早く具体化し実践していた点にあると考えられる。マイクロソフトはアルテア8800用BASICインタプリッタの知的所有権をMITS社に売り渡さずに使用許諾を与えるという契約を締結した。そのソフトウェアを売り払ってしまえばまとまったお金も入る。近視眼的な人間であれば迷わずそうするところであっただろう。しかし、ビル・ゲイツは敢えてその選択をしなかった。

そんな意思決定ができるか否かがマイクロソフトとMITSの明暗を分けたのかもしれない。

私たちのようなソフトウェア開発会社の場合、お客さまの依頼に応じてソフトウェアを開発し、それを納入することでまとまったお金を一気に確実に得るという手段を採ることもできる。そうすれば短期的には売上を大きく伸ばし、社員数を増やすことも簡単にできる。しかし、お客さまに収めたソフトウェア資産はお客さまに所有権があり、自分たちにはそれがない。だから、過去の資産をストックし、それを積み上げるようにしてマイクロソフトのように飛躍できない。

ソフトウェアのライセンスビジネスで特徴的なのは最初の一本目のソフトウェアを開発し販売するまでには膨大な人と時間が必要とされる。けれども、2本目以降については一瞬のうちのそのコピーが創れてしまう。インターネットが発達した今日であれば、ネット経由で世界中にそのソフトウェアのコピーを無制限に何本でも光速のスピードで瞬間的に販売できる。

客観的に見れば、売れるのか売れないのか分からない。そして形すら見えないソフトウェア製品の研究開発に自己資金でもある資本金の大半を投入するのには勇気のいることではないだろうか。しかし勝算が見込めるのならば、そして自分のやりたいことが実現できるのであれば、それにチャレンジする見返りは充分にある。

マイクロソフト社の例を見れば分かるように、ソフトウェアライセンスビジネスの立ち上がりは極めて緩やかだ。しかし、その分時間軸の幅も広く、それが世界中で利用されるものであれば、その高さも天にも届く勢いを保つことだろう。マイクロソフトはその潮流に乗ることができた。そしていまはシリコンバレーとは一定の距離を保つようにワシントン州レドモントに本拠地としている。

確かにシリコンバレーには優秀な技術者が集まり、有望なIT企業も多いかもしれない。しかし集積も限度を超えると弊害も及んでくる。一つは従業員の定着であり、もう一つは住居などの生活環境である。栄枯盛衰の激しいIT業界では、いろんな有望なベンチャーが突然登場し、そしていつの間にか消え去る。シリコンバレーではそんな景色が至るところで見ることができるという。それ故に優秀な技術者の企業への定着率も悪く、生活の物価も他の地域と比べ極端に高い。昨日の日経新聞(2005年5月10日朝刊)に掲載されていた記事からだが、「ムーアの法則」で著名なゴートン・ムーアによれば、有能な技術者のシリコンバレー離れは既に始まっているという。

マイクロソフトの事例からは以上のような背景を学び、ソフィア・クレイドルはソフトウエア製品開発型ベンチャーとし、本拠地は首都圏から離れた京都という地において創業することにした。過去のソフトウェア資産をストックしそれを梃子にして飛躍するアプローチ。それから、ITベンチャーの少ない京都という地だからこそ逆に、輝かしき未来ある前途有望な人材がソフィア・クレイドルという「」に集積すると考えた。

(つづく)

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2005 年 05 月 09 日 : Core concept -11-

最近のAUの携帯電話を利用されている方ならBREWというキーワードはご存知かもしれない。4月のKDDI発表によると、BREWが搭載された携帯電話普及台数が1000万台を突破したという。いまから3年前、私たちがBREWという新しきプラットフォームに着目し研究開発をスタートした時、国内マーケットにBREW搭載携帯電話はどこにも見当たらなかった。世界を見渡せば辛うじて、米国と韓国にそれらを合計しても数百万台というちっぽけなマーケットが存在するのみであった。

そしてBREWに関する研究開発に着手してから一年間というものは国内のBREWマーケットは文字通り"ゼロ"であった。しかも2003年から出荷が始まったBREW搭載携帯電話の出荷台数は伸び悩んだ。

そんな状況で、何故BREWを選択したかという意思決定の理由は、今後のソフィア・クレイドルの経営において極めて重要な要素と思われるので、今日はそのあたりの内容を簡単にまとめてみる。

モノが売れるには原因があるから結果としてそうなるわけで、その原因を創り出すことからベンチャー経営は始まるという風に考えた。モノが売れるということはそれを買う人がいるということである。モノ自体が機能や品質の面で他よりも優れているのは当然であるとしても、肝心の買う人はどこにいるのか?―――ということが最初の最大の課題であった。

マクロ的な視野から俯瞰すれば、日本の人口は”減少”の一途を辿っている。しかし、世界の人口は”爆発的に増加”しているという点に、着目すべきなのではないかと考えた。その事実から生じるシンプルな発想は、世界マーケットは拡大してゆくが国内マーケットは縮小の一途を辿る運命にある、ということである。おそらく今後数十年間はこの傾向が続くものと予測されよう。

ビジネスにおいて成功を収めるには、できるだけ長い期間に渡ってマーケットの伸びが期待できる方が良い。もしそうだとすると、仮に平凡な仕事をしていたとしても、上りのエスカレーターに乗るようにしてものごとは運ばれてゆくだろう。だからこそビジネスとして成立するかどうかの判断基準は、世界マーケットに持っていける製品を創れるか否かであった。そんな中にあって、BREWというプラットフォームは私たちにとって申し分の無いものであった。BREWは"情報通信"という国にとって商業的にも軍事的にも極めて重要なテクノロジーを提供する国策企業的な位置付けにあるUSのQualcomm, Inc.によるものなのだ。これが世界マーケットに拡がってゆくのは時間の問題と見なすことが出来た。

携帯電話だけでも数十億台ものポテンシャルがあるのに、私たちが始めた頃は、この広い世界マーケットには数百万台しかBREW搭載携帯電話は普及していなかった。何よりもスタッフがBREWというプラットフォームにテクニカルな興味を持ってくれたのが有り難かった。才能のあるスタッフが、興味や関心を持ち、熱意と情熱をもって研究開発に取り組めば、売れる資格の有る製品は必ず創れる。その時私はそう思った。

難しかった判断は、そのマーケットがいつからブレークするのか、そのタイミングであった。創業間もないベンチャーであるだけに、マーケットを動かすだけの体力は未だ無い。マーケットの変化の兆しをできるだけ早く察知し、それに向けた対応をするしかなかった。

通常の研究開発型ITベンチャーが創業時にするような受託案件もあまり受注せず、製品の研究開発に専念した。自らが主体となって自分たちの意志で100%自律的な経営をするというのが起業の理由でもあった。VC(ベンチャーキャピタル)などからの資金調達や銀行からの借り入れも創業以来ない。自社オリジナルのソフトウェアのライセンスを販売するビジネスなので仕入れもない。だから自己資本比率は100%に近く、経営には自由度と自律性がある。

ターゲットとすべきポイントは、数千万円かけてやる最初の研究開発投資をどういうタイミングで回収するかという一点に絞られた。研究開発だけをしているとお金も出てゆく一方なので、そのままだと何れ資金も枯渇し、倒産という憂き目を見ることに成りかねない。だから、研究開発をしつつその資金を得るために、スケールとしては、ソフィア・クレイドルの基幹製品よりは小粒なものも並行して研究開発し、その製品化と販売によって本命の製品の研究開発を支えた。

携帯電話の世界マーケットを考えた上で、製品寿命も長く、多くの人々に利用してもらえそうだと思ったプラットフォームがもう一つあった。それが携帯電話向けのJavaである。JavaはNTTドコモやボーダーフォンの携帯電話にも搭載され、3年前の2002年、既に数千万台ものマーケットが国内に実在していた。だから人々に必要とされ、売れる製品さえ創ればそこから収益を上げることは不可能では無かった。その時に閃いたのが、Javaのアプリケーションを圧縮するツールであった。携帯電話のアプリケーションにはサイズ制約があり、その問題をどうやってクリアすればよいかという点に、お客さまのニーズは確かに存在していた。

過去にこの日記にも記したように、このJavaアプリケーション圧縮ツールSophiaCompress(Java)の製品化と販売はさまざまな問題が発生したが、そんないくつかの壁をなんとか乗り越えて製品は売れるようになり、ソフィア・クレイドルの本命ともいえる基幹製品の研究開発を支えてくれた。最近では、SophiaCompress(Java)に対する海外からの問い合わせも増加の一途を辿り、今月ようやく海外対応版を出荷する予定である。

研究開発型ベンチャーの場合、初期の研究開発投資をどうやって賄うかという大きな難関が立ちはだかる。私たちは自由に好きなことを自分たちの意志で決めて実行することに重きを置いた。だから外部からの資金調達には最初から消極的なスタンスを取った。そしてそのためにはどうすれば良いかをじっくりと考えた。またできるだけ永続するようなスケール感のある企業へと育てたい夢と希望もあったので、常に世界的な視野からマーケットを眺める努力を欠かさなかった。

(つづく)

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2005 年 05 月 02 日 : Core concept -10-

マラソンは一人で42.195キロを駆ける陸上競技だ。大きな組織に属していれば、訓練や施設などの練習面で恵まれるかもしれない。けれども、レースの行方を決める要因はその選手の個人的な能力や才能、情熱にかかっている。複数の有力選手がチームにいるからといって、駅伝のようにリレーするわけにもいかない。

ベンチャーはゼロからスタートするものである。最初は小さな存在に過ぎないのに、自分よりも理論上強い競争相手と勝算のある戦いをせねばならない。既存の競争相手には歴史があり、それ故に人材や資金、設備の面で有利なポジションにある。創めたばかりのベンチャーがそんな相手に真っ向から挑めばたちまち辛酸を舐める結末に終わるだろう。

だから最初はできるだけ競争の無い場を選択して行動するのがベストである。たとえ戦わねばならない状況に追い込まれたとしても、自分の強みを活かして1対1の戦いに持ち込める事業領域を予め選ぶということが何よりも肝要だ。自分以外に誰一人いない砂漠のようなところでビジネスを創めるのには勇気がいるかもしれない。しかしそれこそがベンチャーの定義といってもよい。

例え話で言うならばこんな感じである。最初、競合が全く無ければ、42.195キロのマラソンもただ一人で独走しているような状態に近い。それがレースの終盤の決め手である35キロまで続き、その時になってようやく競合がそれに気が付いてスタートした時には時既に遅しということである。オリンピックのゴールドメダリストにしても35キロ先をゆく素人ランナーを退けるのは至難の業であろう。最悪、マッチレースになったとしても10対1よりも1対1の戦いに持ち込むことができれば勝算というものも充分に見込める。

ベンチャーが離陸できるか否かはこの戦略がうまく功を奏するかに掛かっている。大企業であれば優秀な人材が無尽蔵にいるが、ベンチャーではそれは望めない。しかし自分を含めて最低一人は闘える人材がいるのだから、戦略と戦術次第である。数は少ないかもしれないが情熱のある人材が得られるかもしれない。

仕事の結果において最も大きくモノをいうのは最終的には情熱である。ベンチャーでは、その仕事が好きだからやっているというのが大半のケースであり、それに賭ける思いや情熱だけは他の誰にも負けないくらい持っている。それこそが1対1の勝負を決する分かれ目となるのだ。

誰しも倒産の憂き目にだけは会いたくないものだ。そのためにどうすればよいのか、私はそのことを第一に考えてソフィア・クレイドルというベンチャーを創めた。

携帯電話のソフトウェアは物理的、コスト的な制約のため、プログラムのサイズをできるだけ小さく抑えて作らねばならない。現段階においては量よりも質が重視される。一人でもいいから、小さくてクオリティの高い究極のソフトウェアを創れるプログラマーが欲しいという世界である。しかし、日本のソフトウェア業界では、プログラミングの仕事の対価がプログラムのサイズに応じて支払われるという悪しき慣行が長く蔓延っていた。

全く同じ機能をするプログラムをAという人は1000行で、Bという人は100行でそれぞれプログラミングしたとする。携帯電話のプログラムであれば、真に評価すべきはBの仕事である。実は、それはAの仕事よりも何十倍、何百倍も価値のある内容なのだ。ソフトウェアの開発生産性で個人差が桁違いなほど顕著に現れる原因は大抵これに所以する。しかしながら、このことは一般には未だよく理解されていない。だから私たちのようなベンチャーでも入れる隙間を至るところに見出せる。

至近な例を挙げるならば、現在皆さんが使っているWindowsパソコンにしても、1970年代末にはXero Altoというコンピューターにその原型が実現されていた。しかし実際に一般の人々に利用されるまでには10年以上もの時を要した。マイクロソフトが実用化するのにそんなに時間を要したのは、それだけ大きなプログラムを記述せねばならなかったということだ。Xero Altoでは、コンピューターの命令自体がシンプルに設計されていたので、Windowsのようなシステムを開発するのに、長い長いプログラムを書く必要は無かったのである。

競合と1対1で戦うことになった場合は、どうすれば1人で競争相手の10人分、100人分のパフォーマンスを発揮できるだろうかというところに思考を凝らした。そのヒントはXero Altoにあったと言えるかもしれない。

(つづく)

  

2005 年 04 月 30 日 : Core concept -9-

ゴールデンウィークだから会社は休みなのだが…。結果的に仕事をしていることになるのかな?USやUKのアントレプレナーたちとメールでコミュニケートしている。慣れない契約の英文に少々悩まされてる。スタッフはゆっくり休暇を取れてるようだ。社内のメーリングリストは平穏を保っている。

過去、仕事として数々の製品やサービスを手掛けてきた。売れてヒットし歓喜に酔いしれる傑作もあれば、その一方で残念ながら全く売れない駄作もあった。振り返れば両極端ではあるが、その差は一体何なのだろうか?どこにあるのだろうか?製品の機能としては何ら申し分無いんだけどマーケットから評価されないものが意外に多い。ほんの紙一重の差なのに、言葉では表せないその壁を越えられない製品が巷には溢れんばかりだ。思うに、そこそこのモノなら創れるのだが、本当に売れるレベルまで到達しているものは極めて少ないということかもしれない。

その製品やサービスが売れる最終的な決め手は何なのだろうか?

この根本的な問題について、その本質が見抜けるかどうかでその商売が繁盛するか否かが決定付けられるように思えてくるのだ。真に良いモノを創り正しくお客さまに告知できれば、黙っていても売れるという信念が心に刻まれている。

華あるアーティストのコンサートのチケットはそう簡単には手に入らない。アリーナなら尚のこと。プラチナチケットというものはそのアーティストのファンであればあるほど、そして希少価値があればあるほど頭を下げてまでも欲しい。オークションで正価よりも遥かに高い値段でも手に入れたいと思うだろう。アーティストにとってはこれほど仕事冥利に尽きることはないかと思う。それがアーティストの心の深淵まで打てば響くポジティブフィードバックをもたらす。そして更なる傑作の創作に繋がるのではないだろうか。

私はそこに21世紀型ビジネスの本質が見え隠れしているように思えて仕方ない。同じ音楽というジャンルの中で数多ある曲の中でも人々の記憶に残る名曲もあれば忘れ去られる曲もある。長期的にヒットする曲はそうなるべくしてヒットしているようだ。その最終的な決め手は「フィーリング」だと言い切れる。なんとなく好きだから、訳もなくいいと感じるから、人はその曲を買うのだ。自分の感覚や感性に言葉でうまく表現できないけれども、違和感無くフィットするという理由で大半のモノが選ばれ売れる時代になってきたと思う。機能や効能だけでモノが売れる時代は去りつつある。そこに何らかの人間の感性に共鳴するプラスアルファーの要素、つまり「フィーリング」が必要なのだ。それが製品にインビジブルな存在感を与えてくれる。

見て聴いて触って試してみて、何となくいいから感覚的に好きだから、お客さまはそれを買う。お客さまの感情に訴えかけるようなモノだけが売れると極論しても良いと思う。少なくとも私はそんな基準でモノを選んでる。

ただ単にその機能を実現する製品を作るだけじゃだめで、「その製品を利用するお客さまのフィーリングとシンクロ出来るか否か」に勝負の全てがかかっているのだ。それは私たち人間すべてが持っていて人の優れた部分である知性や感性のシンクロするところにあると思う。ゴールデンウィークの長期休暇で、普段気付けないようなことを感じながら過ごせるのはいい。何ごとも思いから始まる。ちっぽけな意識の差に過ぎないかもしれないが、それが映し出す鏡像は果てしなく偉大なものへと変貌を遂げることすらある。

(つづく)

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2005 年 04 月 28 日 : Core concept -8-

1976年。Steven JobsSteve WozniakApple Computerを設立した。そのSteven JobsがXerox PARCを訪問し、現代のパソコンの原型とも謂われる”Xerox Alto”見て衝撃を受けたのが1979年。そして商業的には失敗に終わったが、1983年にApple Computerの歴史に燦然とした彩りを添えるLisaが完成した。その翌年の1984年には今日のAppleを世界に知らしめることになる”Macintosh”が発売される。最初の頃こそアプリケーションといえるものが何も無かったので、”Macintosh”の販売は苦戦を強いられた。しかし1987年に”HyperCard”と呼ばれる、誰にでも簡単にマルチメディアコンテンツをオーサリングできるツールのバンドルによって、その後紆余曲折はあったにせよ、Macintoshは世界の桧舞台にデビューしそこを一気に駆け上がっていった。

Microsoftよりも一歩先に世界へと躍り出たApple Computerも今日の革新の礎を築き上げるのに足掛け10年という長い歳月を要している。世の中に革新をもたらした企業の発展の歴史を眺めてみることがよくある。そういう風にして学んだ大切な事実がある。世界的に偉大なものほどその基盤の確立に時間をかけているということだ。それから創業の頃ほど前途洋々とした20代の若者たちが持てる才能を遺憾なく発揮しているのが伺える。若ければ三振することも確かに多いが、当たった時それは場外ホームランとなる。コンピューターやインターネットを駆使して成功した、偉大なITベンチャーにはそんな雰囲気が漂っている。

SophiaCradleというベンチャーを起業する際に最もよく考えたのはこんなところにある。それは次の時代を担う革新的ソフトウェアというものは自分の限界を知らず、敢えてそれに挑戦しようと志す、できる限り若いスタッフたちと共にやることによってそれは実現される可能性が高い。そして2−3年という短期間のプロジェクトではなく10年以上に渡って続く連続したプロセスの集積のように思った。また偉大なベンチャーほどその創業者たちの趣味が興じてそれが世界規模へのビジネスへと発展していった例が多く、その仕事を趣味として位置付け、仕事に人生の楽しみを見出せるかという辺りも重要視した。そんな観点から共にベンチャーを起業するスタッフを募っていった。

ソフトウェアビジネスは研究開発し製品化したプログラムをコピーしてそのライセンスを世界中に配布するという性格を帯びている。ある意味では音楽や出版のビジネスと同じだ。その内容さえ良ければ限りなく果てしなく売れる可能性を秘めている。一方ではその内容が100%の完成に向けて一歩及ばないだけでも全く売れない厳しい世界でもある。ほとんどのミュージシャンが曲を書いて演奏しても売れないと同じように、ソフトウェア製品も売れているものはほんの一握りでしかない。

しかし一握りでしかないのに売れているものは確かに存在し、売れる製品を販売している会社は連続して売れる製品を立て続けに発表している。これは浜崎あゆみのように売れるミュージシャンが次から次へとヒット曲を連発する世界に近い。そこには何か法則めいた原理原則のようなものがあるに違いないと私は考えた。それさえ発見し解明できたら。その原理原則に則って運用すれば、間違いなくビジネスとしては成功し、夢と希望を抱いて飛躍できる。

MS-DOSやBASIC、C/C++、Netscape Navigator、HyperCard、UNIX、Java等など、偉大なソフトウェア程、例外なくそのソフトウェア開発の初期の段階では10名以下の少人数からなる少数精鋭のプロジェクト組織によってなされてきた。また一人のSoftware Architectによる、そのソフトウェアについての首尾一貫し統一された設計思想があらゆる面で生きていた。SophiaCradleで研究開発しているソフトウェアは最初から世界マーケットを前提にしている。それだけに世界的に評価され売れたソフトウェアというものがどんなものでどのような背景で生み出されたものなかについては、いろんな製品について何度も何度も研究を積み重ねた。

以上のような背景もあって、SophiaCradleでは23歳の若きExecutive Vice President & Chief Software Architectが世界に向けたソフトウェアの研究開発の指揮を執っている。創業した時、彼は20歳になったばかりだった。けれどもプログラミング経験は10年以上有していた。だから仕事をする上で何ら問題はなかった。

時の経過と共に、Chief Software Architectの友人や後輩、それから紹介を通じて才能に満ち溢れ、有望な若きスタッフが海外からも集った。それにつれ製品の機能性、クオリティも飛躍していった。ミュージシャンと同じで人々に買いたいと思ってもらえるような、ソフトウェアを開発し製品化するにはそれなりの人材を集めなければならない。単にできる程度では駄目なのだ。しかもソフトウェア製品というものはチームで形づくられてゆくものだから、チームとしての統一感やハーモニーも重要になってくる。そんなところに最大の配慮を施して、長期的な視野から未来を展望しつつ少数精鋭のドリームチームを結成していった。

(つづく)

  

2005 年 04 月 27 日 : Core concept -7-

ベンチャー起業というものは創業者がそれまでに歩んできた足跡が映し出された万華鏡みたいなものなのだ。過去の出来事をバネにして飛躍し成功を果たしたベンチャーが多いように思える。だから何故ベンチャーを起業したのか?その経緯や背景を抑えて、それを経営の指針として大切に取り扱うべきだろう。

学生時代は必須科目の単位など多少の制約はあったにせよ、その当時何も束縛のない自由な日々を満喫していた。大抵のことなら自分だけの価値判断基準に従って自ら決めて行動するという風に。しかし大企業の一介のサラリーマンとして社会の門出に立った途端、そんな生活も一変した…。

お金を貰って働いているからそれは当然だろう?というのがほとんどの考え方なのかもしれない。大組織の中では本来の自分の意志に背くようなミッションも多かった。納得のいかない歯痒い日々がベンチャーを起業するまで延々と続いた。大企業というのは安定していて傍目から見れば確かに輝かしい。

実のところ、それ故に企業そのものの仕組みがタイタニックのように小回りの利かないものになっている。与えられた仕事を着々とこなすタイプの人には向いているのかもしれない。冒険好きの私にとってその環境は耐え難いものであった。生憎私は指示や命令通りに動けない性分だった。オフィスとかブランドは申し分なくカッコ良かった。個人的な見解だが、居心地は見た目ほどいいものじゃなかった。

誰しも取り柄が人それぞれにあるものだ。私の場合、子供の頃から数学の成績だけは抜群に良かった。だから将来はこの才能を伸ばせる職に就きたいと中学生の時分から自分の未来に期待を抱いた。その頃はコンピューターというものは今みたいにどこにでもある物ではなく、漠然とイメージするしかなかった。ひょっとしてプログラマーってカッコいい職じゃないかなと思いを馳せていたものだった。それは彼の有名なビル・ゲイツとポール・アレンが世界で初めてアルテアというマイクロコンピューター用にBASICというプログラミング言語環境を完成させた頃の話だ。

できるだけ自分の才能を開花させたいという一心から、大学では数学とコンピューターの研究に受験勉強よりも熱心に励んでいた。大学での基礎理論中心の勉強だけでは実践的でない。だから大学生の頃からプログラミングのアルバイトにも精を出した。周囲にいた友人の大半は家庭教師や塾、予備校の講師をしていた。当時としては少数派の学生プログラマーとして楽しくアルバイトに勤しんでいた。今を時めくマイクロソフトの存在がようやく日本でも微かに意識されるようになっていた。

その当時、パソコン(マイコンと呼んでいた)のメモリは64キロバイトしかなく、スピードもかなり遅かった。でも社会ではちゃんと役立っていた。コンピューターとしての性能なら、いまの携帯電話の方が格段と勝っている。だからこそ何十年後かに携帯電話がどのように進化しているのか?その未来にワクワク&ドキドキさせられる。

その時のワクワク感が一本の糸のように繋がって、幸いにもそれが切れずにソフィア・クレイドルというベンチャー起業に辿り着いたと謂えなくもない。その当時は「ベンチャー」とっても文字通り「冒険」という意味でしか通用しなかった。そんな時にとあるベンチャー企業でプログラマーをしていたのは自慢と言えるだろう。そしてプログラミングの面白さに文字通り嵌った。

社会に出て何年か過ごすうちに、大企業とは如何にして効率良くお金を稼ぐか、それが第一。それを実践する場であるかのような感慨が日増しに大きくなった。勿論、崇高な企業理念はあったが、皆が皆そのように行動しているとは思えなかった。自分のやりたい仕事に恵まれている人はほんの一握り。ほとんどの人はひたすら与えられた仕事のノルマをクリアするのに四苦八苦していた。

大抵の大企業は株式を公開している。その企業の形式的な所有者である株主の、経営に対するプレッシャーが外資系の企業は強い。最近では国内の上場企業にもそんな傾向があるように思える。企業は株主の意向をよく汲みとって運営されねばならない。株主が期待するのは端的にいえば配当の源泉となる利益そのものだ。しかも配当が高ければ自ずと株価も上昇し申し分ない。だから短期的な利益を追い求め、結果的に墓穴を掘る大企業経営者が後を絶たない。

社会人となってから初めて理解した重要な事は、大企業は世界を変革するようなブレークスルーを生み出す場では無いということだ。パソコンはマイクロソフト、インテル、アップル…、インターネットはシスコシステムズ、ヤフー、アマゾン…、携帯電話はクアルコム等など、挙げれば切りがない。身の回りにあるほとんどのものについて、その発祥の地はベンチャーだったりする。世の中が変わる革新的な技術やサービスはそのほとんどがベンチャーから産まれているのは確かな事実だ。だからそんな職に就きたければベンチャーを選択すべきだったのだ。しかし日本国内では将来有望そうなベンチャーを私は発見できなかった。プログラミングの分野でブレークスルーを起こしたかった私としては砂を噛むような思いの日々が続いた。

実際のベンチャー創業は39歳になってしまったが、20代後半の頃から既に私は心の片隅ではベンチャー起業を志していた。ベンチャーを創業し育てるにはいろんな知識や経験が必要なのでは?とその時はそう思った。多種多様なことを意識的に学び、ベンチャースピリッツを大切にし何事にも真剣に取り組むように努めた。そうやって勉強や訓練しながらベンチャー起業に備え、そして起業のチャンスをしっかりと掴もうとした。今から振り返れば、早すぎて悪いことは何も無いように思うが、過去の事実は変更できない。結局のところそれは良かったんだと、ただ前向きに解釈する方が良いだろう。過去はきっと変更できる。

(つづく)

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